結局、何のために生きるのか?
結局、何のために生きるのか?
この疑問に対する答えを一つ私はすでに書きました。
すなわち、
絶対的存在理由はなく、相対的なものではなかろうか、と。
最近この疑問に対するもうひとつの答えが浮かびました。
すなわち、
幸福になるためである。
私たちは結局幸せを実感するために生きているのではないでしょうか。
ではどのような時に実感できるのでしょうか。
仕組みとしてはドーパミンなどの快楽物質が脳内に出るときということになります。
このことは何を意味するかと言うと、
絶対的に楽しいことがあるのではなく、
楽しいと感じる心のプログラミングに従った時に楽しいと思う、ということです。
生物もつくられたものであるということです。
作ったものを生命のもとと私が呼んでいることはすでに書きました。
神がつくったと考えると話は簡単なような気もしますが、神という実体を確かめることができない以上、進化論的に生物自らがそれをつくる思考力を持っているという考え方を私はしています。
どの程度の思考力かと言うと、私たちの肉体や鳥を考えてみてください。 工夫と精密さに満ちています。
無論完全ではありません 。精密であるがゆえにもろい部分もある。医学というものはそういうプログラム上のバグの補正を行っていると考えても良いのではないでしょうか。
私たちは原始の意思の敷いたレールの上を歩いているだけです。
原始の意思は、 私たちをしばることを目的とせず、最適なものは何かと考えているはずです。
そういう環境のなか、釈尊はニルヴァーナこそ最上のものであると説きました。
もちろんドーパミンは色々な時にでます。 食べている時、走った後、労働の後様々な場面でドーパミン一つで私達を導こうとしているかのようです。
さてニルヴァーナは本当に最上のものでしょうか。
私はまだそれを確かめていません。
しかし全ての私の苦しみや苦労がそのためにあったのだとしたら、私の人生も一本道になります。 その道へは何を持たなくてもいけます。
最近色々な事のあった人生を振り返ると、昔と比べると確かに私はニルヴァーナのに近づいています。
では、幸福感に満ちているのかと言うとどうもそうとは言えません。なんと言うか体調次第なのです。 心配事というものがなくなり 肉体的には悪い所も特にないので、快適な毎日で良いはずなのですが、どうも朝は調子がでません。そして、ちょっと辛い思いをしながら仕事を終え、家に帰ってしばらく休むと、私のニルヴァーナタイムがやってきます。
休みが2、3日続いた時は、ゴロゴロしてしまい、それはそれで体調調子が少し狂います。
ニルヴァーナをやすらぎだとすると安らぎを得るためには体調を整える必要があるのです。
そういう経験を振り返ると、生命のもとの深淵なプログラミングがあると思ってしまうのです。
生に執着せず死に執着せず、心静かにその時を待て。
釈尊の言葉です。
しかし何をしながらは待てば良いのでしょうか。
瞑想でしょうか。
釈尊は人々に教えを説くという有意義に思えることを生涯しておられます。
ボーと1日を過ごすと何もすることがないように思えるときがあります。
釈尊のような偉人の真似は難しいとしても、私にとっての着地点を見つける必要があると思っています。
人には三つの生き方がある。
1. 自らの喜びのために生きる。
2.他人(ひと)の 喜びを自らの喜びとする ことができるものは最も幸せである。
3. それらの生き方についてのこだわりを捨て、自らを空じる生き方。
これは以前私が書いたものですがこの三つは別々のものではないのです。
人は自らの喜びのために生き始め、他人の喜びを自らの喜びと感じることを知り、自らを空じることができた者はその存在自体が人のためになる。
人は何のために生きるのか?
幸福になるためである。
ニルヴァーナこそが最上のものであるとブッダは説きたもうた。
我らは我らをつくりし者の真意に逆らえない 。
なんとなればそれは深淵にして我々そのものであるがゆえに。
サーヴァカ