徒然なるままに

徒然なるままに


私は、コロナに関わる休みをコロナ休暇と一人呼んでいます。前半は、体がきつくて、ゆっくりする余裕などありません

でしたが、今日、明日は、良い休養日です。


寝転びながら、本棚に目をやると、水上勉著の「禅とはなにか」が目にとまりました。


そういえば、最近仏教本から、遠ざかっていたなと思いながら、ぱらぱらめくりました。


禅宗の始祖は1500年前の達磨(だるま)で、インドから、中国にやってきた人であるとあります。


釈尊から1000年ほど後の人ですね。


仏教は、釈尊から2500年の歴史がありますから、様々な偉人、賢人を輩出しています。


私はそれらをみると、釈尊の思想を賢い人が聞くとそういう論が、立てられるのだろうなどと思います。


様々な仏教の論の根底には、釈尊の言葉がある。


それは同じものなのか、別物なのか、わたしには、判然としないのですが、同じ思想の流れにあることは言えるのでしょう。


ちなみに達磨の思想が、どのようなものかというと、二入四行論(ににゅうしぎょうろん)でつきるようです。


どのようなものか興味深かったので引用します。 


真理にいたる方法に二つの立場と四つの実践が要るというのである。


 二入の一つは、 原理的ないたり方で、経典をよく学んで、仏法の大意を知って、 生きとし生けるものすべては、平等な真実をもっているけれど、 外来的な妄念にさえぎられて、本質をで実現できないでいることを確信せよ、というのである。 もし妄念を払って、本来の真実にかえって身心を統一して壁のようにしずかな状態を保っていたら、自分も他人も、凡人も聖人もひとしく一なるものであることがわかってくる。分別を加えるまでもなく、しずかに落ちついてきて作為がなくなる。これが原理的ないたり方だ。


もう一つの実践的ないたり方には四の実践方法がある。 第一は前世の怨みに報いる実践であり、第二は因縁にまかせる 実践である。 第三はものを求めない実践である。 第四はあるべきようにある実践だ。


前世の怨みに報いる実践的ないたり方というのは、修行者が苦しみに出あったとき、自分の心に次のように反省せよというのである。自分はずっと昔から無限の時間にわたって本当の自分を忘れて、 末端を追ってばかりいて、多くの 迷いの世界をさまよい、多くの怨みや憎しみの心をおこし、限りなく他と対立してきた。 この苦悩はすべて、自身の前世の宿業がみのったものだ。神や悪魔があたえたものではない。それ故甘んじて忍従し、怨んだり、いいわけしたりせぬことだ。



次の因縁にまかせるというのは、生きとし生けるものには自我がなく、すべて因縁に左右されている。苦楽すべて因縁による。だから好ましい報いや晴れがましい栄誉も、すべて過去の宿命的な要因がもたらしたものだから因縁がつきれば無に帰るものだ。 決してよろこび、有頂天になっておれるものではない。世間的な失敗や成功はすべて因縁による。いくら 物質的な栄誉を得たって自分の心にちっとも増減はないのだから、それに動かされずに縁にまかせるのである。


第三のものを求めぬ実践はよんで字の如しだ。世間の人はつねに迷ってものをむさぼる。つまり希求だ。 知恵のある者は真実を悟り、世俗と次元を異にしているので、心を自然に作為なきところに落ちつけ、身体も運命のはたらきにまかせて、 あらゆる存在を実体なきものと考えて、物質的な欲をもたない。 希求すれば苦しくなる。希求せぬ時こそ楽しい。 希求せぬことこそ、まさに真理の実践である。


四つ目のあるべきように生きるというのは、万物が本質的に清浄であるという原理をあるべき法と名づける。この根本原理からすると、あらゆる現象はすべて空しく、そこには汚れもなく、執着もなく、此と彼の対立もない。経典にもいっている。「理法は生存者としての実体をもたぬ。 生存者としての流れをこえているからだ」。 知恵ある人は もしこの原理を体験したら、必ずあるべきように生きるだろう。


達磨のこの「二入四行論」は、禅宗の宗旨の根元らしいです。



釈尊もいいこというけど、達磨さんもなかなかだなあ、などと思いました。


夜中の2時を回ってしまったので今日は、この辺で終わりにします。



       サーヴァカ

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