ブッダの境地

ブッダの境地



以前、四法印について述べましたが、 4番目の宝印 涅槃寂静(ニルヴァーナ)についての記述が少なかったように思いますので述べます。


ニルヴァーナは広げていくものだという意味があると思います。 一方で到達点としての完全なるニルヴァーナという意味もあります。


正しく覚った人(仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。   ダンマパダ187


欲望、欲念、執着、妄執は私達を惑わすものであるという意味で同義であると言って良いと思います。


ダンマパダ187の意味は私たちは多くの妄執に惑わされており、それら一つ一つを消滅させていくことを楽しむという意味だと思います。


それこそがニルヴァーナであり、克服がニルヴァーナである。そして、それらを理想的に克服した人が釈尊なのです。


その釈尊の境地について、ダンマパダ14章に述べてあります。


そのダンマ179~196を引用します。





第14章  ブッダ  (中村元訳)


179

ブッダの勝利は敗れることがない。この世においては何人も彼の勝利には達し得ない。ブッダの境地はひろくて涯(はて)しがない。足跡をもたないかれをはいかなる道によって誘(いざな)い得るであろうか?


180

誘(いざな)うために網のようにからみつき執着をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。 ブッダの境地はひろくて涯しがない。 足跡をもたない彼をいかなる道によって誘い得るであろうか?


181

正しいさとりを開き、念(おも)いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれらを羨む。


182

人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。


183

すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること ーこれが諸の仏の教えである。


184

忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は道の人ではない。


185

罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して適当な量を知り、淋しいところにひとり臥し、座し、心に関することにつとめはげむ。 ーこれがもろもろのブッダの教えである。


186

たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である。


187

天上の快楽にさえもこころ楽しまない。

正しく覚った人(仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。


188

人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など多くのものにたよろうとする。


189

しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免れることはできない。


190、191

さとれる者(仏)と真理のことわり(法)と聖者の集い(僧)とに帰依する人は、正しい知恵をもって、四つの尊い真理を見る。


すなわちー(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅(おわり)におもむく八つの尊い道(八聖道)とを見る。


192

これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免(まぬが)れる。


193

尊い人(ブッダ)は得がたい。かれはどこにでも生まれるのではない。思慮深い人(ブッダ)の生まれる家は、幸福に栄える。


194

もろもろのみ仏の現れたまうのは楽しい。正しい教えを説くのは楽しい。つどいが和合しているのは楽しい。和合している人々がいそしむのは楽しい。


195、196

すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも怖れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたはその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でも計ることができない。



         ―完ー

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