「 第12章 ブッダ」 についての観察


前回、ダンマパダ12章 ブッダについて全文を引用しました。


余分なことかもしれませんが、私の観察を述べます。


いわゆる霊性についての考えは、人によって異論のあるところでしょうが、当時のインドでは、人格神としての神々を認め、アミニズムとしての霊樹や山々に対する信仰も認めています。


しかし、ブッダはそれは人は救われるよりどころではない。一切を苦しみであるという真理を知り、自己をととのえて、それらを克服することがあらゆる苦悩から逃れる道であると説いています。


そうして解脱したブッダを神々も羨(うらや)むと表現しています。


神々は人間より優れた存在で、寿命も長く、彼らの住む天界は楽しみの多いところと考えられていましたが、ブッダの弟子は天上の快楽にさえ心楽しまない。


妄執の消滅を楽しむ。おそらくブッダは妄執が消滅しているのでしょう。


この神々の存在や山々等の霊性に対する信仰のあり方は、日本の信仰のあり方と共通するものがあります。


信仰を解き放て(捨てされ) という言葉が原始仏典には出てきますが、その意味は否定ではなく、本当の道を知れということであろうと思います。


キリスト教的神はおそらく全知者と捉えられていると思うのですが、ブッダの思想を知っているでしょうか?別物の思想ですからおそらくは知らないでしょう。


人の幸福とは何か、心の幸福とは何かということに対してブッダは世間とは別の価値観を提示しています。


本当かしらと思うこともありますが私に確かめることができるところまでは、確かめてみたいと思うのであります。


      サーヴァカ

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