何のために生きるのか④ 苦しみからの開放

何のために生きるのか④  苦しみからの開放


今回は万物の中の私達の存在意義、万物が相互依存関係にあるとはどういうことかということから考察してみます。


万物とは何でしょうか。


それは、目の前の石ころであり、空気であり、水であり、他人であり、地球であり、太陽であり、宇宙であります。


まず石ころについて考えます。


石ころにとって私はどういう存在なのか、私にとって石ころはどういう存在なのか。


私は石の上を歩きます。風や水でさえ岩を穿つのですから摩滅の作用はあるでしょう。


昔、1日だけ石垣作りのアルバイトをしたことがあります。石の形を変え石垣を作りました。

それからこれは美しい石だと観賞することもあります。

石(土)がなければ道がなく、歩くこともできません。

私達は石の形状を変え位置を変え、そして鑑賞します。


石に意識があるとは私も考えていませんから彼らが意味を考えることは、今はないでしょう 。


しかし、やはり意味はあると言うべきではないでしょうか。


人にとっても普段は地面の存在など深く考えませんが、なければ生活することさえ難しい。

両者はお互いの存在で影響を受けあっています。


空気というのはもっと身近なものですね。 酸素を取り入れ二酸化炭素を出すという呼吸をしていますし、私たちの体の多くは水でできています。火葬されれば大気中に戻ります。


それから私たちは地球の一部であり太陽系の一部であり宇宙の一部であります 、


私たちの生死がそれらに大きな影響を与えるとも思えませんが、すべてはそういう小さなものの集まりなのです。


私たちは存在しているだけで存在しているという意味があるのです。


最後に他人との相互依存関係ですが互いに意識を持った者同士でありますから多少複雑になります。


私は最初存在の意味を考え出した時、ひょっとしたら誰かに「あなたは私にとって、とっても大切な人です。」と言ってもらいたかったのかもしれない。

潜在的にしろそういう願望があったような気がします。


でもそういう意識というものは幻想と言うべきものかもしれない。


そして、私が万物として挙げた例の物はどれが欠けても私たちは存在し得ないでしょう。


万物の微妙なバランスの上に私たちを存在しています。


自分の存在意義を考え出した時、それは私の不完全さや隠しようのない汚れが目につき、苦しみの始まりであったとも言えます。自分というものをあると考え、その絶対的あるいは確信的理由を見つけるということは難しいことです。

なぜならば、理由というのは他者から見た自分にあると考えた方が適切ではないかと思えるからです。


私は釈尊が輪廻思想に苦しむ人々を救うために現れたブッダであると最初読みましたが、経典を読んでもピンと来ませんでした。今は少し分かるような気がします。


一切は無常でありすべてはスカンダ(集まり)である。


不変のアートマンはなくとらわれてはならない 。


自己を含めたすべては実体がなく空であるとみなせ。


そう心得て自己を整えよ。


そうしたならば苦しみから解放されるであろうというのが釈尊の教えであるような気が、今しています。


私は今苦しみから開放されているような気がします。


当時の人々の中にも救われた人はいるでしょう。


縛りから開放されたものはどこへ向かうべきなのでしょうか?


        サーヴァカ

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