何のために生きるのか③

何のために生きるのか③



この疑問に対する最終解答を私はまだ手にしていません。


どこかのアニメに出てきそうな「世界の帝王になる」とか「世界の人々を救う」為に生まれてきた、あるいは生きるというのは明快な ひとつの答えのような感じですが、 釈尊は 帝王となることに価値を置かないし、自らは救われなければ本当の救いはないと説きます。


絶対的理由はないし、つくられた理由は真実ではありません。


釈尊の場合、教えを説くことにより人々の道しるべとなり、結果、救われた人がいます。


仏になるためには仏の生き方を真似すれば良いという考え方がありますが、簡単には真似できません。


① 理由を考える人、考えない人。


世の中には、理由を考える人と考えない 人の2種類がいるようです。私の場合などは存在の理由を考えるようになってしまったのですが、そういう理由というものを考えない人がいる。


そういう考えない人は何を大切にしているかと言うと、その時々の感情や感覚を大切にしているのではかろうかと推測します。


どちらが良いかということは、人それぞれですから、どちらが良いということは言えません。


さて存在の理由ですが、それは、二つに分けて考えることができます。


一つは物質としての私たちがどうして存在するようになったか。


もう一つは心の拠り所としての存在の意義、意味は何なのかということです。


一つ目は結局、宇宙論、存在論になります。これについて私は私なりの見解を持っていますが、確かな科学的根拠はありません。しかし、空の思想と通じる部分があると思っています。いつか私の想像する宇宙論について述べたいと思います。


二つ目の意義、意味ですが、これは私たちが生きる実感のための拠り所となるものです。


私は何のために生きるのか①で脳内物質のつくり出す快楽を求めることが生きる理由の一つだと書きました。


唯物論についての考察で、私は最終的には彼らの快楽主義に否定的だったのですが、 それは何か欠けているものがあると感じたからです。


仏教でいうニルヴァーナに至るというのも一つの快楽主義といえなくもありません。


おそらくすべての宗教、哲学、思想は人にとっての最上の快楽(幸福)とは何かを探すためのものである、と言って良いのではないかと思います。


ではどういう時に脳内物質が出るかということですが、私たちは経験上知るより方法がありません。


具体的事例により考えてみましょう。


① 渇いた喉に生ビールは美味しい。


私は若い頃、夏の炎天下の屋外で仕事をしていたことがありますが、一日中暑いところで仕事をし、ひと風呂浴びて、街に出たことがあります。 ある店で生ビールを一気飲みしたのですが思わず少し残した。目の前のその時の仲間を見ると彼も残している。目が合うと、彼はこう言いました。「こんなうまいもん、いっぺんで飲んだらもったいない。」 実に私と同じ気持ちだったのです。私は今でもあの時の生ビールはうまかったと思い出します。


釈尊も断食後のスジャータの差し出したミルク粥が、成道のきっかけとなったと伝えられています。


このことから言えるのは、危機的状況、逆境から抜け出した時にドーパミンは強烈に出るということです。


苦労した時の方がそれが実った時の喜びは大きいと言えるのではないでしょうか。


生命のもとはどうしてそういう設定にしたのか。


ただ言えることは、単なる快楽主義では最上の快楽は得られないということは推察できます。


おそらくその方が生き残るために有効、効果的と考えたのでしょう。


生ビールの場合も釈尊の場合も、生命のもとの快楽設計のうちにあると言えると思います。


次に何のために生きるのか②で述べた空の思想についてですが、自己は他があってはじめて存在し、他は自己があってはじめて存在する。(他とは人だけに限らず万物です。)


自己の存在意義を考える場合、自己を含めた万物の中の自己の存在とは何なのかを考えなければいけません。


万物にとって自己とは何なのか自己にとって万物は何なのか。


踏み込んで言えば、万物は自己であり自己は万物の具象化したものであると言えると思います。


万物は相互依存関係の現れであります。


それを構成する個々のものについて不変の実体、本質というものはありません。


それを実相だとすると、確固たる自己を想定してその存在意義を問うことは意味がないというのは言い過ぎでしょうか。


私は長いこと方向違いの疑問を追求していたのかもしれません。


しかし私とは何だったのかを考える良い機会であったし、今後残りの人生をいかに生きるかを考える良い踏み台であったと思います。



         サーヴァカ

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