他宗教と釈尊の教え後代の仏教
他宗教と釈尊の教え、後代の仏教
ここで他宗教というのは、キリスト教、イスラム教、 バラモン教、日本の宗教を意味します。後代の仏教というのは、原始仏教と比較しておもに大乗仏教のことを指します。
私は宗教学の専門家ではありません。聞いたり、読んだりした浅い知識でざっくり書きます。その道に深い人からは当然異論があるでしょう。あれば受け付けます。議論するつもりはなく、拝聴させて頂きます。前置きはこれくらいにして本題に入ります。
まず一神教のキリスト教、イスラム教、それにユダヤ教もこの類いに入ると思うのですが、これらの宗教は全能者たる一人の人格神の存在を信じ帰依することによりその信仰が始まります。
その全能者により世界は始まり、全能者の力によって我々(信者)のために楽園が築かれる。 人間は死後神のもとへ行くというものです。全ては神の力によって行なわれ、人間は神に信仰を捧げるのです。
この世界観に似ているのが後代の仏教の中の浄土教です。
全ての人々を救うと誓願を立てて、仏となられた阿弥陀仏が極楽浄土におられる。全てをこの阿弥陀仏にお任せして極楽浄土に生まれ変わるというのが浄土教です。これを他力本願と言います
一神教と他力本願は非常に似ています。
バラモン教や日本の多神教も神々はおり、それを信じ儀式などを通して信仰を捧げることにより神によるご利益を願うというものです。
後代の仏教は様々な仏や菩薩を創り出し、多神教と一体化した感があります。
これと対照的なのはやはり原始仏教です。
頭上に君臨する神がおりません。
釈尊が生きながらにして、解脱したのですが私は人々を救えないと言っています。教えを説くだけです。理法を知り自ら救われよと言っています。
あくまでも自力なんです。
それでは原始仏教と後代の仏教はまるっきり別物なのかと言うとそうでもないのです。
後代の仏教も釈尊の教えを継承しようとしています。そして、ちょっとややこしいのですが、釈尊は自力を説きながらも天界を否定していないのです。
例えば、ウダーナヴァルガ第5章23
神々は功徳をほめたたえる。正しい行いをなす人はこの世で非難されることはなく、また死後には天にあって楽しむ。
これは、
ブッダの弟子は天上の快楽にさえ心楽しまない。
というダンマパダと一見矛盾します。
これは対機説法の一種と考えれば良いと思います。
ウダーナヴァルガは良い行いをせよ。
ダンマパダは快楽に耽ってはならない。
言いたいことはこれであって、死後良い所に生まれ変わりたいと願い、信じている在家の人は、それでは良い行いをせよというのです。
これは私の推測ですが、釈尊は天界のあるなしとか輪廻のあるなしとかいうことは重要視していない。今、私たちは何をなすべきなのかということが大切だと考えている。
だから当時の民間信仰を否定しない。
あるところではそれを利用しています。
だから後代の仏教が宗教化、あるいは宗教と一体化することも釈尊の意に完全に反するかというと、そうとも言えないと思います。
釈尊が成道(悟った)した時の心境がサンユッタニカーヤⅡの第Ⅵ編梵天に関する集成に述べてあります。
釈尊は真理を悟ったという自覚はありますが、それを説いても世の人々(執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりにふけり、執着のこだわりを嬉しがってる人々)は理解してくれないのではないかと思います。
そして世の中には様々な人がおり、そのなかには真理を悟る人もいるかもしれないと思い直して、説法を始める気になられたのであります。
何が言いたいのかといいますと、最初期の仏教はあくまで人間ブッダの悟りであり、人間ブッダの到達した真理であるということです。
それが私のひかれる一面であるわけです。 人間の考えたことであるならば、同じ人間である私も理解できるかもしれないと思うのです。神様の考えていることは私にはおそらく手が届かないであろうと。
そして教典のそこかしこに表現される釈尊像が私は好きなのであります。おごらず、謙虚で、優しく、頭脳明晰で、自信と確信を持っている行いの正しい人。なかなか周りにはいません。
だから理解できるところまで理解したいと思うわけであります。
そして人間ブッダの説く真理は神々がいるかいないかといった問題とは別物であると言えると思います。
サーヴァカ