慈愛と愛
慈悲と愛
私は音楽が好きです。 今はもっぱら聞く方ですが。 ジャンルは、特に決まりはなく、聞いて耳障りの良いものです。 歌もあれば、器楽演奏のみのものもあります。 最近フリーの音楽配信サービスがあることに気づき、自分好みの音楽を選んでタダで聴きまくっています。( CM はありますが)
いわゆる歌を聴いていて思うのですが、ほとんどがラブソングなのです。男女の情愛についての歌が多い。人生は愛によって価値づけられるかのような感があります。
さて、釈尊は何と言ってるかと言うと「 愛するものをつくるな」です。
愛することはどうしても執着を生み、苦しみが生じるからだと思います。
歌の世界で愛だ恋だと盛んに歌っているのは、愛こそは大切だという欧米の思想が影響しているのではなかろうかと思います。
「 汝の敵を愛せ」 などという言葉もあります。
理屈としては、神は全ての人々を愛している。お前達は神を愛せ。神を愛するということは、神の愛している敵も愛せということらしいです。
本当だとすると、戦争がなくなりますから素晴らしい思想だと言えるでしょう。
でも神は最終的に全ての人を救うかというと、どうもそうではなくて、神を信じる人のみを救うようです。
信仰の対価として救済があるみたいです。
日本人の感覚からすると、神様仏様は全ての人を平等に救うという思いがあるようですが、ちょっと違うみたいです。
仏様の場合も、少し似ていて、人々が無明の中にいて苦しんでいるのを見て、憐れんで教えを説かれた。けれども、仏は、人々を直接救うことはできない。教えを説くだけです。人々は自分の力によって無明を破らなければなりません。
ここで愛に話を戻すと、
釈尊は、「 愛するものをつくるな。」と説きます。 一方で生きとし生けるものを慈しめとも説きます。
愛と慈しみの心の共通点は、相手を大切にするということです。
愛は、その時の心ないし情感に重きを置き、慈しみは行いに重きを置くと理解してみてはどうでしょうか。
例えば美しい花があるとします。
その美しさに感動し、情愛を持って花を愛し大切にする。時には自分のものにする。それが愛です。
慈しみの心は花が美しいとは思うけれども、その感情に流されることなく大切にする。
キリスト教が日本に入ってきた時に、「 隣人を愛せ」 ではなく、「 隣人をお大切に」と訳したそうです。
この方が東洋人である私には受け入れやすいです。
ここで余分な事ですが私にも恋愛体験はあります。
でも、「 僕は君を愛しています」とは、 どうも言えませんでした。 英語圏では I love you と日常的に言っていることは知っていましたが、愛とは何かということを知らずに愛しているなんて言えませんでした。 まあ、気恥ずかしかったのでしょう。 生きている限り君を大切にするぐらいは、言っても良かったのかもしれない。
でも感情って一時的なものでしょう。
一時的なものを永遠って言っていいのでしょうか。
実際、自分の情熱を維持できない場合もありました。
「愛」 というのは私にとって瞬間風速みたいなところがあります。 だから、移り変わる自分の心はそれとして、相手の心を思い、行いとして、相手を大切にするということで良いのではなかろうかと最近思います。
「 愛するものをつくるな」
「 慈しみの心を持って、行いとして相手を大切にしなさい」
私の心はこの教えで少し楽になります。
サーヴァカ
付記: そんなこと言ってラブソングは、それなりに楽しませて頂いています。心は、いまだに、こなたの岸ですから。