自分という感覚

自分という感覚


私とは何なのでしょうか


存在論として、仏教的に言うと、諸行無常、諸法非我ですから不変・永遠の実体はないということになります。


ある本で読んだのですが、私たちの体の細胞は新陳代謝により生まれてから死ぬまで何度か入れ替わっているそうです。つまり、「私」の 入れ物としての体は更新されている。


けれども、記憶の連続性という脳の働きによって、生まれてから死ぬまで連続した「私」という感覚がある。


それは感覚であって、本体・本質を持った実体はないというのが、仏教の立場ではなかろうかと思います。


実体はなくとも、認識主体が「私」であるという感覚がある以上、私はあると思える。


生死を超越して、その私に連続性があるとするのが バラモン教でいうアートマンではなかろうかと思います。


どちらが正しいのか、仮の存在としての私か、内実を持った私か。


ただ現実問題として、私たちは感覚としての私を実体視して、物事を考えるより仕方がありません。


だからアートマンの存否はいずれであるといっても現実上問題になりません。


記憶の連続性により裏打ちされた感覚が再生された時に、私は蘇ったと言えるのでしょうか。


私が生きているというのは、この感覚の様々な刺激の感受による所産であると言えるのでしょうか。


私とは結局何者なのでしょうか。


何者でもないかもしれません。


        サーヴァカ

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