八万四千の法門と四法印

八万四千の法門と四法印



仏教には八万四千の法門があると言われています。 法門というのは悟りへの道です。


八万四千 というのは非常に多くの法門があると捉えるだけで良いと思います。


別の考え方をするとそれぞれ名々にとっての仏教であって良いということになると思います。


それでは何でも仏法にかなうのかと言うとそれでは仏の教えというものがなくなってしまいます。


私の捉えた仏法とは何であるか について述べてみたいと思います。


釈尊は最初に教義をたてて説法を始めたわけではありません。 成道後45年間語り続けたその言葉が後の時代にまとめられ経典となり仏教の教えとなったのです。


最初にスッタニパータから次の言葉を紹介します。 マーガンディヤ という人との会話の一部です。


師は答えた。


「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』ということがわたくしにはない。 諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤を見て、固執することなく省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

       スッタニパータ837


この言葉からわかるように釈尊は特定の教義や戒律をたてるということをしていません、それらを離れ、諸々の原因は執着であると知ったということを 言っていると理解します。


これは仏教の諸経典に共通のベースとなる認識であろうかと思います。


依拠するものをもたぬ思想。これはどこから生まれ何を釈尊は語ったのでしょうか。 釈尊の時代にはテレビやラジオはありません。そしていろんな人が語っている。その中で釈尊の語りの特徴を四法印と言います。


四方印について述べます。


それは、

1. 諸行無常

2. 一切皆苦

3. 諸法非我

4. 涅槃寂静  と漢訳にはあります。


ダンマパダには次のように表現されています。


1. 一切の形成されたものは無常であると明らかな知恵を持って観る時に人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそが人が清らかになる道である。


2. 一切の形成されたものは苦しみであると明らかな知恵を持って観るときに人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそが人が清らかになる道である。


3. 一切の事物は我ならざるものであると明らかな知恵を持って観る時に人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそが人が清らかになる道である。


4. ニルヴァーナに至る道を歩めという詩句は多くどれが代表的なものか難しいです。


四法印について私の理解を述べます。


1. 諸行無常

諸・・すべての。

行・・ 形成作用。

無常・・ 常住なるもの(永久不変のもの)                はない


私を含めた世界は変滅しており、不変なるものは何一つとしてない。このように世界を観なければならない。


2. 一切皆苦


一切のつくられたものは苦しみである。


ここで苦しみとありますが元は思うがままにならないという意味を含むようです。

私達は欲念(欲望)とその充足による満足により生きていますが、欲望には際限がなくその追求は結局思うがままにならない。 故に欲念をコントロールしなければならない 。欲望を滅ぼすという表現も見受けられますが、制御すると理解する方が適当であろうと思います。


欲望に身を任せるということは結局苦しみであるということを知れということではないでしょうか。


3. 諸法非我

諸法・・ あらゆる存在

非我・・ 我にあらざるものである。


一切の事物は我ならざるものである。


この表現はすぐに理解するのは難しいのですが、意味するところは自己には永久不滅の実体及び本質はなく、我にあらざるものをわがものと思ってはならないということのようです。


これは我である。これはわがものであるという思いを否定しているのです。


故に、我執してはならない。


4. 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)


三つの法印を一つにすると一切は空であると表現できると思います。


仏教史的にいうと、有の思想があり、空の思想は後の思想であるという感がありますが、空の思想は釈尊までさかのぼれるのです。


一切は空であると知り、ニルヴァーナに至れ。


釈尊はそう言ってると思います。


     サーヴァカ

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