マーガンディヤと釈尊 ー 空の思想

マーガンディヤと釈尊ー 空の思想


今回はマーガンディヤと釈尊のやり取りを取り上げてみたいと思います。


というのもこの章のやりとりは、釈尊の物事に対する姿勢や、彼の思想の核心に近づくヒントがあるような気がするからです。


まず、引用します。


九 マーガンディヤ


836  (マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、 多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?


837 師は答えた、「マーガンディヤよ。 『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。 諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見に置ける過誤を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。


838 マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、<内心の安らぎ>ということをお説きになりますが、 そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」


839 師は答えた、「マーガンディヤよ『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とはわたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。 それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)。


840 マーガンディヤがいった、 もしも、『 教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても、清らかになることはできない』と説き、『また教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、とある人々は考えます。


841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)についてかすかな想いをさえもいだいていない。だから、あなたはわたくしの説をばかばかしいとみなすのです。


842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人 ー かれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、かれには『等しい』とか『すぐれている』とかあるいは『劣っている』とかいう思いは存在しない。


843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるのであろうか。またかれは『汝の説は虚偽である』といって誰と論争するのであろうか?『 等しい』とか『等しくない』ということのなくなった人は誰に論争を挑むであろうか。


844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。


845 竜(修行完成者)は諸々の偏見を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、むさぼることなく欲望にも世間にも汚されることがない。


846 

ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心にいたることがない。 かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導き入れられることがない。


847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。 知恵によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」



(考察)


これを読まれた方が どのような感想を持たれるかは自由ですが、私の個人的解釈を書きます。


かたちあるものに固執するマーガンディヤ。


かたちあるものとは女や宝であり、思想的には、戒律や教義です。


釈尊には女や宝というつくられたものは無常である、という考えが根底にあると思います。無常なるものに固執しても喜びは少ない、一時的なものである、と釈尊は考えていると思います。


戒律や教義についてもそれは先人が作り上げたものです。 そして、それらに釈尊は過誤を見出しています。何故か? それは釈尊の見出した空の思想がそれらには欠けているからだと思います。


物質的にも思想的にもすべては空である。


すべては本質が無くこだわるべきものがない。


マーガンディヤは言います。


もしも、『 教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても、清らかになることはできない』と説き、『また教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、とある人々は考えます。」


釈尊の教えは、ばかばかしい教えでしょうか。


釈尊はちゃんと続きを答えています。

「 それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって迷いの生存を願ってはならぬ 。」


さて、私たちは生まれたての赤ん坊ではありません 。様々な知識や経験を身につけています。


釈尊の言わんとするところは、平安になりたいのであれば欲や知識を捨て去って純粋な心で物事を自分で考えなさいということだと私は思います。


人の意見や損得を離れ、冷静に物事を一度考えてみなさい。 そして、自分で考えた善行を行いなさい。


人と論争することは無益である。


私はこのように理解します。


そして根底にあるものは 物質的にも思想的にも空であるという思想だと思います。


最後に、スッタニパータ1119から


「常によく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って世界を空なりと観ぜよ。 このように世界を観ずる人を<死の王>は見ることがない」



       サーヴァカ

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