生きるということー思想比較

生きるということー思想比較


生きるということはどういうことか、あるいは、私はいかに生きるべきかという問題を考える時、 私が 釈尊の教えに重きを置いていることは、私のブログをお読みになっている方はお分かりだと思います 。


しかし 釈尊の教えに依拠すると言ってしまうとちょっとおかしくなります。


というのは釈尊の教えはいかなる見解・教義にも依拠してはならないというものだからです。


固執せず執着と偏見を離れ、いかなる事柄をも知り抜け、しかし、それによって慢心に至ってはならない。というのが釈尊の教えです。


依拠してはならないという教えに依拠をするというのは矛盾することになります。


よりどころなしに物事を考えるというのはそれはそれで難しいと思います。


それでぼんやりと頭の中に釈尊の教えを置きながら物事を考えるということを私はしています。


明治のある国学者が仏教というものはそもそも分かりにくいと批判したとある本で読みましたが、一理あると思います。


それでは他の思想家はどのような主張をしているのでしょうか。私の理解の範囲で書いてみたいと思います。



バラモン教では無限の時間的、空間的広がりを宇宙は持つという宇宙観の中、宇宙を支配する原理ブラフマンと個を支配する原理アートマンという思想がありました。


ユダヤ教とその流れをくむキリスト教、イスラム教では恒久不変の意思を持つ神の存在を想定しています。


西洋の思想は釈尊の知るところではないとは思いますが、恒久不変のものを想定する思想に対し、釈尊は諸行無常・・・ 一切のつくられたものは生滅変化しているという考えを提示しています。


以下、今までブログで書いたことのおさらいみたいになりますが、


唯物論者は生まれる前も後も断絶しているという考えで、今生きている間だけの快楽を求めれば良いという一面を持っております。


虚無主義者は、人間の存在は、意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値がないと主張します。


何故、これらの思想を再掲したかと言いますと、 各項目で私はこれらを否定的に書きましたが、正直申しますと、私の内には、これらを肯定する要素があるからです。


私の心の状態によって、今が楽しければそれでいいやと思ったり、全てが虚しく何事にも価値がないような気がする時があったりします。故に各主張に一理あると思え、私はどれが本当・真理なのだろうかと思う時があります。


虚偽ではない真実が知りたいと思う反面 、やはり心穏やかに生涯を終わりたいとも思います。


釈尊の教えは 非常に禁欲的でありますから、その通りに実践することは難しいけれども、欲望の追求は落とし穴があるという忠告は 身に染みることのあったものです。


私の最近は比較的穏やかなものです、


最終目標に軟着陸できるかもしれない。 しかし、人生を振り返るとあとちょっとというところで撃沈という経験を何度もしています。


私の心の内に欲望という危険要素があることを私は自覚しています。


死んだら終わりなのだとしたらまあなるようになるでしょう。私なりに最善を尽くすだけです。


死後の世界があるとしたら、ブッダに会えるかもしれない。かの人であれば私のような愚か者でもうまく導いてくれるような気がします。


それにしても・・・。何か熱中できるものはないだろうかと最近思います。 できれば世のため人のためになることを。


しかし冷静に考えると体力的、金銭的に余力はあまりなくまあこのままで良いかとも思います。


何事にも執着してはならない というのが釈尊の教えであるという風に理解していますが 、人は暇になると執着の対象を探すものかもしれませんね。



           サーヴァカ

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