死んだらおしまい・・・?
死んだらおしまい・・・?
国際的に活動しているある宗教家が、これが日本人の共通認識であると言っていました。
そして、世界のスタンダードではないとも言っていました。
私も日本人のはしくれですから、自問してみました。
死んだらおしまい。・・・確かに私もそう考えているかもしれない。その宗教家の言っていることは、当たっているかも、と思いました。
では、世界ではどうなのかと考えてみた時、私は、路上で、勧誘活動をしているキリスト教系のアメリカ人の言葉を思いだしました。
曰く、
私達は、死んだら、神のみ許へ行くのです。そして、神と共に暮らすのです。
彼は、さらっとそう言っていました。
確かにそう信じていれば、死んだらおしまい、ではありません。
死んだらおしまいと、どれだけの日本人が考えているのか分かりませんが、諸外国の常識(死後の世界がある)と、どちらが良いでしょうか?
私は、日本人が無宗教だとは思いません。そういう世界に半信半疑の人が多く、外国の人は、あると強く思っている人が多いのだと思います。
神仏が存在するかどうか。
私は、神が存在すると思った方が幸福であるという意見に、ある時遭遇し、そうしようと思ったことがあります。
そして、そう思うために、自分で確かめようとしました。自分で確かめたものだけを信じる、それが私の長年の信条だったからです。
さて、どうやって確かめようかと思いました。
私は、ヤハウェがいるならアッラーがいるかもしれない、それらがいるなら日本の神々がいるかもしれない、霊的仏がいるかもしれない。そう思いました。
要は、そういう世界と通じることだと思いました。
それで、どうしたかといいますと、片っ端から、近くの神社仏閣を拝みまくりました。
ある時は、誰もいない山上のお寺に、月明かりだけを頼りに山道を歩きました。
あれは緊張しました。暗闇の山道は、心が張りつめます。そして、住職のいないお寺についたら、般若心経を唱えました。そして、何か聞こえないか、心を澄ませました。
それは、20年ほど前の7月7日、七夕の日です。
私は、家に帰り、緊張のなかで一人座っていました。
そうしていると、言葉が聞こえてくるような気がしました。
「それで、お前の望みは何なのだ」
「お前は、何歳まで生きたいのだ?」
「80迄生きられれば・・・」釈尊の享年を思いだしながら答えました。
「お前の子どもは、何歳まで生かして欲しいのだ?」
「それは・・・」私は、80歳と答えようとして、子どもの寿命を決めるなんて、とてもできないと思いました。
私は、神との会話の空想が恐ろしくなり、思考を停止しました。
その夜、夢を見ました。
私は、中性的な男性のうしろをついて歩いていました。
どうしたら良いのか分からず、ただついて歩いていました。
その人が、振り返った時、私は、エクスタシーに達し、射精しました。
どうしたら良いのか分からず、そのまま、その人のうしろをついて歩いていると、その人がまた振り返り、私は、またエクスタシーに達し、射精しました。
それは、3回起こりました。3回目の後、目が覚めました。朝でした。
夢だったのか。何だったんだ、今のは。
と思いました。
私は、夢精したのではないかと思い、思わず、下半身を確認しました。それは、ありませんでした。
私は、神と通じるなんてことはしばらく止めよう。時間をおいて、この出来事は、再考しようと思いました。
そうして、20年何事もなく過ぎました。
さて、私は神と交信したのでしょうか?
あるいは、ただの一人相撲だったのでしょうか?
私は、今、後者のような気がしています。それは、神との問答は、私の内にあるものを越えていないような気がするからです。
夢は、極度の緊張状態で、脳が、無意識のうちに、暴走したと思っています。
その後の平常な日常では、何事も起こらなかったからです。
ただ、預言者と呼ばれる人達は、近似の体験をしているかもしれないとは、思います。
結局、私は、神の存在の確認を放棄しています。
故に、死んだらおしまいという考え方を否定できません。
生きている間のことだけ思い、死後のことは、そうなった時に分かるという考え方をしています。
釈尊の生に執着せず、死に執着せず、心静かにその時を待て、という教えは、どのように受け止めたらよいのかと、今、考えています。
サーヴァカ