人生は・・・

人生は・・・


この書き出しで、次の読み人と知らずの川柳を思い出された方はいらっしゃいますか。


人生は死ぬ時までのひまつぶし


今回はこの川柳を題材に考察してみたいと思います。


私はこれを見た時それはそうかもしれないけどひまつぶしという表現は何とかならないかと思いました。


人生はもうちょっと価値あるものではないかと。


私はこれを詠んだ人は人生の晩年である程度生活に余裕のある人ではないかと推測します。


なぜなら、自分自身を振り返ると、若い頃、仕事や子育て、そして親の看護をしている時は暇つぶしなどと言っている余裕がなかったからです。


精一杯で、私にとっては真剣勝負で、体が最後まで持つかという思いを抱いていました。


そして今、全てがなるようになりました。終わったわけではありませんが。


この歌を詠んだ人に近い境遇になったのではないかと思います。


「ひまつぶし」という ある意味で的を得た言葉を押し返せるくらい、人生に意味を見いだすことが私にできるでしょうか。


釈尊は過去を悔いるな、未来を思うな、今のみを生きよ説きます。


私は過去は、過ぎ去りし夢に等しいと思いますし、未来は、未だ来たらざるものであるから、くよくよ考えても仕方がない。余計なことを考えず、今のみを生きよという教えであると理解しています。


仏教では一般的に「悟り」を目指し、悟る事は何回も生まれ変わらなければ到達できない境地であると考えられていますから、暇つぶしなどと言っていられない、精進に励む生涯となると思います。


ただ、釈尊はあるところで、時を要しない法を説くと言っていますから、理解力のある人は釈尊の言葉により直ちに悟ることができるのでしょう。


悟りし人の境地はどのようなものか、今まで何回か書きましたが、


生に執着せず、死に執着せず、心静かにその時を待つ。というものです。


仏法を学ぶ一つの方法論として仏の真似をするというものがあります。考え方を真似してみるというのも一つの方法であると思います。


さて、現実問題として、瞑想・座禅をしながらその時が来るのをひたすら待つというのは、今の私にはできそうもありません。


私は忙しい出来事が一段落した後、しばらくして、何をしたら良いのか分からなくなりました。


私は音楽が好きですから、音楽を聴きながらのんびりできると思っていたのですが、音楽を楽しむためには、楽しむ心の状態というものは必要であることがわかりました。


何かを楽しいと思うためには、心(脳)と身体の状態を整えることが必要なのです。


そのために、最近は次のことを行っています。


1. 音楽鑑賞


2. 仕事


3. 将棋


4. このブログ


5. 時々座禅


これがうまく回ると快適に1日が過ごせます。


釈尊は五つの感覚器官による快楽に溺れてはいけないと説きますが、ある程度の刺激は体調を維持するために必要であるというのが私の経験上の結論です。


将棋はネット上で見知らぬ人と対戦するのですが良い刺激になっています。


心と体の状態を整えていろんなことをする。


ひまつぶしというのは絶対的理由はないということかと思いますが、日常の中に楽しみを見出せば、 ひまつぶしと言わず日々楽しということになるかと思います。


そして最終的には、心静かにその時を待つということになろうかと思います。



       サーヴァカ

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