生きるというのはどういうことか?

生きるというのは どういうことか?


このテーマについて一度書くと以前書きました。

何かのきっかけで閃くものがあるかと思い温めていたのですが、何も新しいことは今のところ思い浮かばないので書きながら考えてみることにします。


辞書を引くと「 生きている」とは呼吸していることとあります。


確かに私たちは呼吸をしています。植物も同様です。


生きているということは、呼吸をしながら生命活動をすることなのでしょう。


ここでゴーギャンの作品のタイトル引きます。


我々は、どこから来たのか。

我々は何者か。

我々はどこへ行くのか。


この我々というのは、おそらく人間のことではないかと思います。キリスト教的世界観から言えば人間は特別な存在だからです。


私の考えでは人間は特別な存在ではありません。 確かに自分が属する種属という意味では特別ですが、宇宙史、地球史を読むと、一つの特徴(複雑な言語を操る)を持つ一種の生命体に過ぎません。


ゴーギャンのタイトルは我々というものがあるという考え方に立脚しているように私は推察します。


我々という確かなものがあり、それはどこから来たのか、何者なのか、そしてどこへ行くのかという疑問だと思います。


仏教では私という不変の実体はないと考えると私は理解しています。 それは変滅するものであり、仮の存在ー相対的に、相互依存関係により、存在しているに過ぎないという考え方をしていると私は思います。


因縁(直接的原因と間接的原因)により生じ、変化しているという考え方はダーウィンの進化論を想像させるものです。



ところで、私は若い頃は夢を持ちそれを実現することが大切だという考え方に傾いていました。


現実は分不相応の夢をもって破れた者なのですが・・・。


若い時はそれでも良いかもしれない。 夢に向かって喜怒哀楽する、生きているという実感がもてるかも 。


だけれども真相は幻に等しい現実の中での喜怒哀楽なのではないでしょうか 。


全ての形成されたものは無常である。


そのことを知れば、すべてはもう少し心穏やかに現実を楽しめる。と、私は思います。


さて、生きるとはどういうことでしょうか。


五つの感覚器官を頼りに欲求を満たす喜びに浸ることでしょうか。


もちろんこれらは生命活動を維持するために必要だからあるものです。無視することはできません。しかし、振り回されてはならないと釈尊は説きます。


私は私の人生を振り返ると、大変なことがたくさんあった分、ニルヴァーナに近づいたと最近思っています。


私の身の上に起こる全てのことは終わりに近づいている。


なすべきことはおおむねなした。


生きるということはまさしく夢を見ることと同じではないかと最近思います。


今後、何をなすべきかと、思いを巡らした時、やはり瞑想を実践し、釈尊の思いに近づいてみることはやっておかなければならないことだと思うわけであります。


そうすればもう少し「生」とは何かということが見えてくるという気がしています。



        サーヴァカ

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