法有と法空

法有と法空


ここで法とは自然界の法則を含む法則、規範という広い意味で使います。


私は教典を読み出した最初の頃、釈尊は真理を見た、理法を説くという言葉に接し、いわゆる法というものがあるのだなと思っていました。


そして常住不変の法というものがあり、例えば、物質が生じることにより、法が具体的な姿を表すと考えていました。


つまり 物理法則などは不変のものであり、宇宙が生じた時にその法則が現実に観測されるようになると考えていました。


小乗仏教と呼ばれた説一切有部と龍樹の議論を読むうち、私の考え方は法有の立場だと気づきました。龍樹は法有に対して法空を主張しているようです。


有部と龍樹の議論の具体的な内容は複雑かつ難解なところがありますから、深く立ち入りません。


しかし、法空という言葉を私なりに考えてみるに、空とは事物の依存関係、言い換えてしまうと相対的なものであると理解してみました。


そうすると法とは常住不変なものではなく、物質が生じた時にそれらの持つ特性とともに法則として同時に現れるものであるとなります。


実際に私の接した情報によるとビッグ・バン の最初期の物理法則と現在の物理法則では違いがあると考えられているようです。


また人のあるべき姿を求める法と考えた場合でも、人の特性や人とはこのようなものであるというものがなければ、あるべき姿を求めることはできません。


釈尊は一切の形成されたものは無常であると説きます。


法がつくられたものの内に入るならば無常であります。


法有か法空かどちらでも良いと言われる方がおられるかもしれませんが、私は法空の言葉により、一歩前進したような気がしているわけであります。


        サーヴァカ

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