唯物論についての考察( 快楽主義)

唯物論についての考察( 快楽主義)


アジタ ·ケーサカンバリン という思想家が 釈尊と同時代にいます。


霊魂の存在、 輪廻(りんね)、 業(ごう)の思想、 因果応報を否定した 感覚的唯物論者です。


唯物(ゆいぶつ)論とは、 物質が終局の実在であるとする考え方です。


霊魂は存在せず、 良いことをしても、悪いことをしても、その報いを受けることがない。 精神は物質に付随して生じているものに過ぎない。 したがって我々は楽しいこと( 快楽)のみを追い求めれば良い。 苦しみは楽しみのためにある という快楽主義の一面を持っています。


私も若い頃は、科学的、論理的に物事を考えなければならないと考える傾向がありましたから、結局唯物論的考え方に近かったのではなかろうかと思います。


回りを見てもこの人は唯物論者に近いと思える人はいます。


釈尊は、快楽の追求は苦しみを生むと言っています。業の思想を採用し、輪廻思想にのって自説を説く。霊魂の存在といった形而上学的問題には無記という立場です。


業の思想··· 良い行いは良い結果(果報)をもたらす。悪い行いは 悪い結果をもたらすというもの。


社会も文化も人生も連続するものである以上、全ては断絶し、今の快楽のみを求めるという考え方はちょっと無理があると最近思います。


釈尊は感官による楽しみは短くて少ないと言っているけれども、凡人には強烈に思える事も少なくない。 私は快感というのは根本的生命が考え出した無知なる者を導く手段だと考えているのですが、それと程よく付き合うのが賢明なんでしょう。結局。


落としどころとしては平凡なような気がしますが・・・。


         サーヴァカ

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