十二  並ぶ応答ーー小編

十二、並ぶ応答ーー小編


878

(世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー 「 このように 知る人は真理を知っている。 これを非難する人はまだ不完全な人である」と。


879

彼らはこの世に異なった執見をいだいて論争し、「論的は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。 これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちでどの説が真実なのであろうか?


880

もしも 論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であり、知恵の劣ったものであるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、 ごく知恵の劣った者であるということになる。


881

またもしも自分の見解によって清らか となり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、 かれらのうちには知性のないものは誰もいないことになる。彼らの見解は(その点)で等しく完全であるからである。


882

諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。


883

ある人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である。 虚妄である」という。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。 何故に諸々の<道の人>は同一の事を語らないのであろうか?


884

真理は一つであって第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の<道の人>は同一のことを語らないのである。


885

みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった 真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか?あるいは またかれらは自分の思索に従っているのであろうか?


886

世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(我が説は)真理である」「他人の説は虚妄である」と二つのことを説いているのである。


887

偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である。無能な奴だ」という。


888

反対者を<愚者>であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を<真理に達した 人である>と称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。


889

彼は誤った妄見を以てみたされ、驕慢(きょうまん)によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。 かれのその見解は、(かれによれば) そのように完全なものだからである。


890

もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、 その(呼ぶ人) 自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もし自分がヴェーダの達人 ・賢者と称し得るのであれば、諸々の<道の人>のうちに愚者は一人も存在しないことになる。


891

「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、< 不完全な人>である」と一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。


892

ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くたもって論ずる。


893

自分の道を堅くたもって論じているが、 ここに他の何ぴとを愚者であると見ることができようぞ。 他(の説)を「愚かである」「不浄の教えである」と説くならば 、かれは自ら確執をもたらすであろう。


894

一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で 論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で 確執を起こすことがない。


        スッタニパータ



付記:


今回、並ぶ応答ーー小編を引用したのは、その結語が、比較的分かりやすいからです。


すなわち、一切の哲学的断定を捨てよ。


哲学的断定とは、本文にあるのは、伝承の学問や戒律や誓いや思想です。


944詩には、次のようにあります。


944

古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない 。滅びゆくものを悲しんではならない。 牽引(けんいん)するもの(妄執)にとらわれてはならない。


以前紹介したカラマ・スッタでも同主旨のことが、述べられています。



あらゆる宗教、哲学、教義、偉人のことばをそのまま受け入れてはならない。

それらには、過誤があることが多いのですね。


では、どうするのかというと、自分で考察、吟味するのです。


私などは、私みたいな頭足らずで大丈夫かなと思ってしまうのですが、自分で確かめなさいというのが釈尊のことばです。


なんの手掛かり、指針もなく、考察するのかというと、中村 元氏解説によると、



人間のためをはかり、人間を高貴ならしめるものでなければならない。


「ひとのため」であり、それが同時に高い意味で「わがため」になる。




このことを念頭に置いて、自分で考え、確かめなさいというのが釈尊の教えのようです。


深い意味は、ともかく、人と議論にならないよう心がけるだけで、人間関係は、まろやかになります。


議論や争いは、不毛であることが多いというのは、私の経験上の真理です。



皆様は、どのように思われますか?


       サーヴァカ

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