二種の観察

二種の観察


昨日は私は、どうも気分がすぐれず、ブルーデイでした。休みでしたので、一日ゴロゴロし、どうしたら気分転換ができるだろうと思い悩んでいました。


眠ると気分転換になる時がありまので、 昼寝をしましたが、効果は、 いまいちでした。


それで、瞑想の真似事をし、原始仏教教典のスッタニパータを適当に開いて読んでみました。


その効果だと思いますが、釈尊に叱咤されているような気がし徐々に気分が引き締まってきました。


今日は仕事だったのですが、わりと好調に一日が過ぎました。


やはり私には、釈尊の教えを時々読んで、瞑想をなんとかマスターすることが必要なのではないかとあらためて思いました。


それで、久しぶりに、スッタニパータから、昨日私が読んだ、二種の観察の最後の部分を引用いたします。



(二種の観察)から



幸せな師はさらに次のように説かれた。


756

見よ、神々並びに世人は非我なるものを 我と思いなし、名称と形態(個体)に執著している。「これこそ真理である」と考えている。


757

或るものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものはそれとは異なったものとなる。何となれば、その愚者のその考えは虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。


758

安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるがゆえに。快を貪ることなく平安に帰しているのである。


「 修行僧たちよ。『 また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、 もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。 どうしてであるか?『 神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・  バラモン・ 神々・人間を含む諸々の生存者が<これは安楽である>と考えたものを 諸々の聖者は<これは苦しみである>と 如実に正しい知恵を持ってよく観ずる』ーこれが一つの観察(法)である。『 神々と悪魔とともなる世界、道の人・ バラモン ・神々・人間を含む諸々の生存者が<これは苦しみである>と考えたものを、諸々の聖者は<これは安楽である>と 如実に正しい知恵を持ってよく観ずる』これが 第二の観察(法)である。 このように二種の観察法を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。


ー すなわち現世における<さとり>か、 あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」ー


師(ブッダ)は このように告げられた。 そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。


759

有ると言われる限りの、色かたち、 音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく 愛すべく意(こころ)にかなうもの ー


760

それらは実に、神々並びに世人には、「安楽」であると一般に認められている。 またそれらが滅びる場合には、 彼らはそれを「苦しみ」である等しく認めている。


761

自己の身体(個体)を断滅することが「 安楽」であると諸々の聖者は見る。正しく見る人々のこの考えは一切の世間の人々と正反対である。


762

他の人々が「安楽」であると称するものを、 諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」である と称するものを諸々の聖者は「安楽」であると知る。 解し難き真理を見よ。 無知なる人々はここに迷っている。



763

覆われた人々には闇がある。 正しく見ない人々には暗黒がある。 善良なる人々には開顕(かいけん)される。 あたかも 見る人々に光明のあるようなものである。理法が何であるかを知らない 獣のような愚人は安らぎの近くにあってもそれを知らない。


764

生存の貪欲にとらわれ、 生存の流れにおし流され、 悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。


765

諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。 この境地を正しく知ったならば、 煩悩の汚れのない者となって、 まどかな平安に入るであろう。


師(ブッダ)は このように説かれた。修行僧たちは悦んで師の諸説を歓喜して迎えた。実にこの説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執着がなくなって、心が汚れから解脱した。



       ー以上ー


さて、久しぶりのスッタニパータはいかがでしたか?私は、六十人の修行僧のようには解脱できませんが、釈尊の言葉には真理が、含まれている、真理が隠されていると思っています。私は、変わり者の一人でしょうか?一度きりの人生、なにかに夢中になるのも悪くなかろうと思っています。


   サーヴァカ

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