空観についての考察

空観についての考察


私は長いことを何のために生きているのか、 存在するということはどういうことか 、という視点で物事を考えていました。


しかし最近は これからいかに生きるのが良いのだろうと考えるようになりました。


残りの生をいかに生き、その時を待てば良いのかと。


それは、私にとっては一歩前進であるように思えます。私を前進させてくれたのは、仏陀の教えであると思っていますので、私なりにその真意に近づきたいと思うわけです。


今回は空観について考えてみたいと思います。空観とは空の思想に立って物事を見ると言って良いかと思います。

では、空の思想とは何なのかということについて般若心経をテキストに中村元氏の解説を頼りにまとめてみたいと思います。


般若心経の全訳は前回掲げました。


私はこの経の思想的中心的部分は、

色不異空空不異色

色即是空空即是色

という部分であると思っています。

ただもともとは


色空空性是色

色不異空空不異色

色即是空空即是色


と三段に分けられていたものを玄奘は二段にしてしまったようです。

中村元さんは略さず、訳しています。


曰く


一段  


この世においては物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ物質現象であり得るのである。


二段

実体がないといっても、それは、物質的現象を離れていない。物質的現象は実体が無いことを離れて、物質的現象であるのではない。


三段


(このようにして) およそ物質的現象というものはすべて実体がないということである。およそ実体がないということは物質的現象なのである。


色を物質的現象、空を実体がないと訳しています。


以下もう少し中村元氏の訳注を引用します。


空ー原語シュニヤターの訳。

「何もない状態」というのが原意である。


これはまたインド数学ではゼロを意味する。物質的現象は互いに関係し合いつつ変化しているのであるから、現象としてはあっても、実体として、主体として、自性(じしょう)としては捉えるべきものがない、これを空という。しかし、物質的現象の中にあって空を体得すれば 、根源的主体として生きられるともいう。この境地は空の人生観すなわち空観の究極である。


次に三段に分けられた般若心経の中心部分と私が思う部分について次のように訳注が書かれています。


第一弾  色空空性是色


物質的存在を我々は現象として捉えるが、現象というものは無数の原因と条件によって 刻々と変化するものであって、変化しない実体というものは全然ない。

また刻々変化しているからこそ現象としてあらわれ、我々が存在として捉えることもできるのである。


第二弾 色不異空空不異色


われわれとしては実体がないという渾沌とした主客未分の世界を唯一のもの、全一なもの、一即一切一切即一なるものとして実感の上で掴まなければならない。しかし、そのためには 現象にまず目を向け、仮にこれを頼りとして、手掛かりとして行かなければならない。現象は実体がないことにおいて、 いいかえると、 あらゆるものと関係し合うことによってはじめて現象として成立しているのであるから現象を見据えることによって、一切が原因と条件によって関係しあいつつ動いているというこの縁起の世界が体得できるはずである。 しかし、そのためには例えば、仮に、この私という現象を動かぬものと仮定しておいて、他との連関を見なければならない。 そのとき、この私という現象が、常に私ではない他のものたちによって外から規定されつつ、現在の私とは違った私、私でない私になりつつあることが理解される。 つまり、理論的に言えば 一切のものは絶えず自己に対立し、自己を否定するものによって限定されるという関係に立ち、限定されることによって、自己を肯定していく働きを持っていることが理解されるのである。 これが第二段の持つ意味である。


第三段 色即是空空即是色


これは第一段、第二段が体験的に掴まれた世界である。言葉によって説明しようとすれば前段と全く同じであるが生きた体験として実感の上で確実に掴まれた世界であるから、第二弾とは千里を隔てている。


私はこの訳注を読んでも完全には理解できないのですが 、私のブログを読まれている方の中には理解される方もおられるかもと思い引用しました。


私はこの世界と私を見る見方は、仏教の特徴的な見方かもしれないかもしれないけれども、本当の見方のような気がします。


釈尊までさかのぼれる空の思想は、釈尊自身はこういう議論をする事に重きを置いていませんでしたが、 釈尊を理解する上では欠かせないと思います。


さて、空観を学びつつある私が現実の世界をいかに生くべきか、どのような毎日を送るべきかと考えるこの頃であります。


姉には「あんた、まさか出家するんじゃないでしょうね」と聞かれた事もがありますが 、そうしなくても自分で考えることはできるのでその必要があるのだろうかと思っています。


私にとっては、私に合った、私だけの釈尊の教えであれば良いと思っていますから。



          サーヴァカ

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