仏教における婦人の問題についての考察②
仏教における婦人の問題についての考察②
聖者や出家修行僧に対する婬欲の交わりについての釈尊の言葉は前回述べました。
そもそも婬欲の交わりとは何なのでしょうか?
私たちはつくられたものなのです。故に無常です。
では私たちをつくったものは誰ですか?
それは神であるとは私は考えていません。
生命は自ら考え自らつくり上げたと考えています。
その原初の意思を私は生命のもとと呼んでいます。
その生命のもとが考え抜いて、子孫を残す手段として私たちに与えたものが婬欲であり、甘い罠である快楽です。
生命のもとは種の存続にかかわることですから、かなり強烈なプログラミングを施しましたが、我々がそれに溺れることは意図していないと思います。
だから、婬欲の交わりについての欲望を制することは、生命のもとの意思とどうつき合っていくかということになります。
生命のもとなるものが存在することは、意識的に確かめることが出来るくらいに私たちの知性は発達していると、私は思います。
さて在家の者は妻帯していいといった文言が経典にあるかと言うと、そうではなくて、現状を追認していると思います。 釈尊は現実を否定しているのではなく現実は現実として受け入れています。
例えば、農夫、職人、商人、盗賊、王などあるがままに認めています。
④ スッタニパータには次のように表現してあります。
スッタニパータ123
或いは暴力を用い、或いは相愛して、親族又は友人の妻と交わる人。ー 彼を賤しい人であると知れ。
スッタニパータ396
ものごとを解った人は婬行を回避せよ。もし不婬を修することができなければ、少なくとも他人の妻を犯してはならぬ。
在家であっても親族又は他人の妻と交わることは禁じられています。いわゆる不倫は仏教的にはダメなんです。それ以外は良いかということですが、私はこれは積極的承認ではなく、消極的承認であると思います。
全ての人が聖人君子になるとは、釈尊も考えていなかったと思います。
私は人には段階があり、それに応じて教えを学べば良いと思っています。
⑤ 釈尊の生涯
年代や時期には諸説がありますが、おおよそ次のような生涯です。
2500年ほど前釈迦族の王子として生まれる。
16歳でヤショーダラと結婚する。
19歳でラーフラという男の子が生まれる。
29歳で出家する。
35歳で成道する。(悟る)
80歳でニルヴァーナ入りする。
これでおわかりのように釈尊には13年間の結婚生活があります。
釈尊は婬欲の交わりを知らないのではなく、 知った上で自説を説いているのです。
ここで注記しますが、当時の出家というのは家族を捨てるというより、今の時代の海外留学に行くと言った感覚であったようです。実際ラーフラは、後に釈尊の教団に入り立派な僧となったとあります。
釈尊は出家後は婬行は断っているようです。私は、若い頃はそのことに懐疑的だったのですが、今はそう思っています。
⑥ 自ら確かめよ
釈尊の教えに自ら確かめよというのがあります。 仏教は理屈重視ではなく、実践重視です。 私は在家だからといって女道に耽るということは仏教の教えに反します。そして、在家であっても、事情が許せば不婬が有益かどうかを確かめるということはできます。
私には彼女あるいは彼氏がいないと嘆くのではなく、不婬の境遇を確かめる良い機会だと思えば、心は少し楽なのではないでしょうか。では、私の場合はどうなんでしょうか。他の人の参考となるかどうかわかりませんが、次回は私の確かめたことについて述べたいと思います。
ー続くー