運命論と仏教
運命論と仏教
運命論、宿命論というのは人間の運命とはあらかじめ(神によって)決められていて、人間の努力では変えられないというものです。
救われるもの、救われないものが決まっていて、人間があがいても、運命は変えられないというのが、もともとの思想のようです。
私は、人生のどん底にいた時に、私の運命も神があらかじめ決めたのだろうかと検討したことがあります。 人生が激流に思え、自分の力ではどうしようもないと無力感を感じていた時期です。
けれども、私は神がすべてを決めているという結論にはなりませんでした。 なぜなら、色々なことが起こりすぎていて、それらを神がいちいち考えてるとは思えませんでしたし、人類の数だけ、生物の数だけ、まるで舞台の台本を書くようにあらかじめ決めるというのは、ばかばかしい、不可能であると思いました。
もっと若い頃は、人生は無限の可能性と選択肢があり、自分の力でそれらを勝ち取っていくのだと思っていました。そして、自分にはそれが出来るはずだと漠然と考えていました。
仏教でいう慢心です。 世界はそれほど甘くなく、思うがままにならない苦しみであることを思い知らされました。
今になって思えば、全て私の欲望と執着と無知に原因があったのです。と、仏教を学んで最近思います。
釈尊はどういう思想を採用しているかというと業と因縁生起です。
業とは、 過去の行いが原因となり現在の果報となるというものです。
因縁生起(縁起)の因は、 直接的原因、縁は間接原因を意味します。 原因があって結果がある。
植物に例えると種子が因であり、 太陽、空気、土などが縁となります。因と縁により植物は育ちます。
私はこの考え方は、 人生や世界をうまく説明する一面を持っていると思います。
難しいのは原因となる何が良い行いで、何が悪い行いで、良い果報とは何かということです。
世間的な名誉、お金、欲望の充足を求めることを仏教は否定します。
無一文でさすらう生活を理想としているのですが、普通の人にはそこまで踏み込むのは難しい。
でもそう言われるとどのような人生でも否定しなくて良いのです。
そして、それは、ひょっとしたら真実かもしれない。
それは世界を不変と見るか、無常と見るかによって違ってきます。
私は思うのですが、人生は肯定や否定はしなくて良いのです、ちょっと苦しい時もあったけど、まあまあ面白かったと最後に思えれば良い。
何となれば実相は空だからです、
心を整えたならば実相が見えるはずです。
サーヴァカ
付記:
と、ここまで書いて仮眠を取りました。
目が覚めると「 お前は本当に名誉や金や女を求める心を克服したのか?」 とささやく声が聞こえました。
釈尊は、マーガンディヤとの会話で毅然と否定しています。
私の場合は「 それらを求める心(本能)は残っている。すべては幻に等しいことを学びながら、求める心の働きをどこかで楽しんでいる。でも得られずともニルヴァーナが待っていることも学んだ」
結局、私の人生は私だけのものなのである。
どのような結末であろうと自分を含めて誰も責めまいと思いました。