善因善果(業)についての考察
善因善果(業) についての考察
釈尊は業(ごう)の思想を受け継いでおります。
業の思想とは、善因善果、悪因悪果です。
良い行いをすれば良い果報(むくい)があり悪い行いをすれば悪い果報(むくい)があるというものです。
良い行いとは何かと言うと、後で、あの行いは、良い行いであったと思えるような行いです。
良い果報とは、 死後良いところ(天界)へ行く、また来世に良い環境に生まれ変わるというものです。
悪い果報とは、地獄へ生まれることであり、悪いところへ生まれ変わるというものです。
では生まれ変わる主体は何でしょうか?
普通に考えれば私ですね。 バラモン教では、アートマンが存在すると考えられていましたから、アートマンが輪廻転生すると考えるとわかりやすいです。
釈尊は諸法非我を説きます。 すべてのものは離合集散の結果であって、私という本質、実体はないと言います。
一方で全てのことを成し終えた真人は、私が語る、人々がこれはわがものであると語っている、と言っても良いと言っています。( サンユッタニカーヤ)
私見なのですが、アートマンは存する、これは我がものであるという仮説に立って語っても良いと言っていると考えます。
また釈尊の説き方は対機説法とよく言われます。
医者に例えられて説明されることがありますが、医者は症状に応じて真反対の薬を処方することがあります。興奮の収まらない人には落ち着く薬を、落ち込んでいる人には元気の出る薬をというようにです。
輪廻転生を信じる世にあっては、その中で語っても良いと言うことであろうかと思います。
それでは死後の世界を考えたくないという人に対してはどうなるのでしょうか。
それは現世においても因果応報はあると考えてよいということになると思います。
果報の訪れる時期については良いことをして、すぐに良い報いがなくとも、機が熟すれば良い報いがあると表現されています。
でも、良い果報を期待して良いことをするというのは仏教的ではありません。
利得を考えずに良いことをするのです。
利得を考えると利得にとらわれてしまいます。
果報を考えないとなると、良いことをせよ、悪いことをするなという言葉だけが残ります。
このことについては話が残っています。
西洋の民族がインドに入りました。
ある支配階層の人が老僧に尋ねます。
「 仏教とは一体何なんだ。宗教なのか、 何なのか。 仏教では結局一体何をせよと言っているのか」
老僧答えて曰く
「 良いことをせよ、悪いことをするな、と教えます」
「 そんなことなら十歳の子供でも知っている。」
老僧答えて曰く
「 分かっていても70歳の老翁でもその通りに実践することは難しい」と。
この話はここまでなのですが、続きを私は妄想してみました。
「 人間はわかっていてもできないから人間なのである。だから、神の教えが必要なのである。」
「 仏教は修行により自ら克服することを教えるのである」
さてそれでは良いこと悪いこととは何なのでしょうか。
ここでは抽象的にしか出てきませんが、他の経典を読むと推察できます。 それは、
慢心によるもの、怒りによるもの、貪欲によるもの、暴力、悪口、これらは悪い行いに通じます。
生きとし生けるものに対する慈しみの心、これは良い行いに通じます。
仏教的にはこうなんですが、人がどうこう言っているというのは重要ではなく、自ら確かめなければなりません。
釈尊はニルヴァーナに至りました。しかし、そこに安住することなく、人々に教えを説くという俗世間に戻ってきました。ニルヴァーナにも執着しなかったのだと伝えられます、慢心により教えを説くのではなく、人のためを思い、憐れみにより教えを説いたのであります。
善因善果、悪因悪果、そう思って良い事をせよ。
難しいことを考えずに、自分でそれを確かめる単純な生き方も、生き方としては良いのではなかろうか、などと最近思います。
サーヴァカ