霊性についての観察

霊性についての観察


最初に霊性って何? と思われた方もおられると思います。霊性の 意味を調べると 優れた人間の性質とか キリスト教的 スピリチュアルの訳語であると出てきます。

私の意味したいのは、 神、 霊魂、 天界、 妖精、霊、 霊界、 など通常は実態として捉えられない神秘的な現象(存在)です。


さて、霊性は実在なのでありましょうか?


霊性に関する分野は、多くの場合、宗教的分野や信仰という分野と言っていいと思います。


ユダヤ教や キリスト教はヤハウェという唯一神の存在を前提としています。

イスラム教ではアッラーです。


ギリシャ神話には多くの神々が登場します。 インドも 元来 多神教です。 日本も多神教です。


神、 あるいは神々がおり、 その国 (世界)が あるという考えです。 空の上にそれはあると考えられていたようです。 仏教でも後代の 浄土教では、 西方はるか遠くに阿弥陀仏の極楽があると考えられていました。


人間の霊魂は死後そこへ行く( あるいは行きたい) と考えられているようです。( 地獄もありますが)


現世においても祈りや供物を捧げることによって願いを叶えてくれる(御利益がある)と考えられています。



キリスト教では 宗派によって違うかもしれませんが、神の力によって永遠の楽園が約束されているようです。


イスラム教も神の法による国がいずれ実現すると考えられているようです。


一神教では世界は神が創造し、神の世界に至るという考えのようです。


多神教の場合は少し違います。


神々の世界にはいろんな神様がいる。あるいは地上の地物には、それぞれの神が宿るという考えです。木には木の精霊が宿り、花には花の精霊が宿り、山には山の神が、海には海の神いると考えられています。


一神教では私は神になるというのは不遜な言葉です。 多神教では昔の偉人を祭り、その後利益の為に祈りを捧げます。

霊魂は存在すると考えられているのですね。


初期の仏教では依拠する神様はいません。 釈尊が誰それの神の啓示を受けたという記述はありません。 自ら考え自ら真実を悟ったのです。 その真実とは人の苦しみの原因を知り 心を整えることにより克服し 快楽の追求ではなく、安楽ことが最上のものであるというものです。



普通天国のイメージとしてはどんなものでしょうか?


病がなく、争いがなく、美しい景色の世界で、美味しい食べ物と素敵な異性に取り囲まれているといったところでしょうか。


以前こんな歌がありました。


♫ 天国よいとこ一度はおいで、酒はうまいし、姉ちゃんは綺麗だ。♫



やはり現実世界の楽しみの集大成が天国なのでしょうか。 楽しみとは欲求の充足される時の快感でしょうか。


釈尊は離欲を勧めます。


科学発展して地球の外側のことも分かってきました。


空の向こうに地球上と似た世界はない。


そうすると天国とは物質を離れた精神世界しかありえないということになると思います。


あるいは地球上の社会が発展して楽園となるのでしょうか。


現代の科学の知識をもって古代の天国観をとやかくいうのは的外れかもしれません。


次に霊魂について観察します。


いにしえの多くの人々は霊魂はあると考えていました。


エジプトのピラミッドもそうです。 いつか 霊魂が帰って来ると考えていました。

その時のため体を存置する方法を考えました。


古代のインドでも個人存在の根本はあると考えられていました。 アートマンと呼びます。 心臓の空所に存すると具体的に考えられていました。 現在のインドはヒンドゥー教徒が多いですが、ヒンドゥー教はバラモン教の流れを汲みますから、この思想は継承されているのではないかと推察します。


日本ではどうでしょうか。

日本では神社仏閣がその専門職のようになっています。


神道の経典というものはないと聞きます。


日本人は、私は無宗教です、という人が多いと聞きますが、これは特定の教義や戒律に縛られたくないということで、霊性を否定しているという事ではないと思います。


このように見ると、世界の多くの人々は霊魂は存在すると考えていると思えます。


慰霊祭は色々な所で行われていますし、お墓は、現在もその役目を持っています。


アジタの唯物論は少数派と言えるかと思います( 唯物論についての考察参考ください)。 唯物論者そのものは少なくないようですが。



では霊魂は本当に存在するのでしょうか。 世の中には霊能力があると言ったり、私は霊視が出来るという人がいますが、それは万人に共通の感覚ではありません。


エジプトのミイラが よみがえったという話は聞いたことがありません。



お釈迦様は何と言ってるのかというと、人は五つの要素の集まりだと言っています。


色受想行識の五つです。 色は肉体、受は感受作用、想は対象の識別、行それに対する意志、識は認識作用です。


肉体と万人が認める四つの精神作用であり、霊魂は出てきません。


霊魂の存在自体についての質問には無記(沈黙を守っている)です。 確かめることの出来ないものに対して議論するよりももっと現実的な問題に教えを説くという立場です。


しかし諸行無常。 諸法無我 という趣意から推察すると、霊魂としてのアートマンは否定してるのではなかろうかと思います。


ある記述によると釈尊はアートマンを見つけられなかったとあります。


世の中では「 私らしさ」、「 自分らしさ」 の追求とよく言われますが これは仏教的考え方ではないと思います。


私に不変の実体はないというのが仏教の考え方です。


テーラワーダの高僧の言葉ですが英語で言うと、

I feel ではなくて There is feeling なのです。 私がいるのではなくてそういう感覚があるだけなのです。


私(サーヴァカ)はこの問題をどう考えているのでしょうか。 私に実体はないにしろ五つ の集まりとしての現在の仮の存在はあります。


実体験を書きます。


私には母がありました。 ありましたというのは2年ほど前に他界したのです。


晩年は私と同居しておりました。 最後の数年は寝たきりで話すこともできなくなり、痰を自分で出すこともできなくなりました。


昼間は姉が来てくれ世話をしてくれていたのですが、 夜中の痰取りは私の仕事でした。 咳き込んだら吸痰器を使い、管を口の中へ入れ、バキュームして取り除くのです。 夜中の11時ぐらいには姉は自宅へ帰りましたので、11時から母が寝入る2時ぐらいまでが痰取りタイムでした。


母の部屋の隣の部屋が私の部屋でした。


母の部屋と私の部屋の両方のドアを開け放して耳を澄ませながら待機し異常があれば飛んでいって、吸痰をします。


そういう生活が数年続きました。 私は仕事が昼からでしたので、7時間ぐらいの睡眠時間は確保出来ていました。


母の亡くなる時はやってきました。 葬式その他でバタバタしましたが親族も全て帰り、私は一人になりました。


一人自分の部屋で横になりドアを見ると開いています。 もうこれからは閉めてもいいんだなと思いました。


頭ではそう思っても閉められません。


まだ母が隣の部屋にいるような、母の魂が隣の部屋にいるような気がしてならないのです。


この感覚はかなり強烈で、いるはずのない隣の部屋を確かめに見に行ったりしました。 それはしばらくの間続きました。


今は落ち着いています。


おそらくは理性と感覚のずれによる錯覚であろうと思います。


こういう感覚があるから、古代以来、霊魂は存在すると主張する人はいるのではないだろうかと思います。


一方で アートマンはお前の心臓の中にいると言われても、 自分自身のことであっても、確かめることが私にはできません。


科学が発達すれば明解で誰でも確かめられる方法が見つかるのでしょうか。


結語としては不適切かもしれませんが、結局、どっちでもいいような気がします。分かる時が来るのか、分からないまま死んでいくのか神のみぞ知るです。


       サーヴァカ

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