何をすべきか?

何をすべきか?


私は、原始仏教教典を読んでいて、かねてから、疑問を持っていることがあります。それは、結局、原始仏教では、何をやれと言っているのだろうということです。


みずからの心をととのえて、ニルヴァーナにいたれ、というのが主な主張であることは、分かるのですが、それがすべてでしょうか。


後代の大乗仏教になると利他に重きを置くようになります。みずから彼岸に渡るより前に他者を渡せなどというのはそうです。


ここで余談ですが、中国では、不景気になると出家者が、増えるそうですが、何のために出家するのかという問いに対して、ある人は、覚りを得て、人々を救うと答えていました。


この答えは、しごく普通にも思えるのですが、原始仏教では、このことは、あまり強調されません。


仏陀は、まさしく覚り、多くの人々を導いたわけですが、人々を救うために修行をせよという文言は、皆無といって良いほど見あたりません。


欲望や執着を離れ、清らかになり、安楽のうちにその時を待つ、それだけです。


ここでスッタニパータから引用します。

ウパシーヴァとの会話です。


1071

ウパシーヴァさんがいった、

「 あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するのでありましょうか?」  

   

1072

師は答えた、「ウパシーヴァよ。 あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、彼は退きあともどりすることなくそこに安住するであろう。」


1073

「 あまねく見る方よ。 もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して清涼(しょうりょう)となるのでしょうか?またそのような人の識別作用はあとまで存在するのでしょうか?」


1074

師が答えた、「ウパシーヴァよ。 たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって、火としては数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在するものとしては)数えられないのである。」


1075「 滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか?或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか?聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」


1076

師は答えた、

「ウパシーヴァよ。 滅びてしまったものにはそれを測る基準が存在しない。かれをああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない 。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」



訳注より


清涼ーインドは暑熱の国である。樹蔭の涼しいところに休むのが理想であった。だから解脱のことを「清涼」と称するのである。



これはわたしの解釈なのですが、解脱するということは、あらゆる縛りから解放された、自由の境地なのではないでしょうか。

わたしはここでも釈尊の言葉は、世間の常識を超えているような気がします。


結局、何かをするために、仏教は学ぶものではないという気がします。


こう理解することも、わたしの心を楽にさせます。




         サーヴァカ

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