どうでもいいこと、よくないこと

どうでもいいこと、よくないこと。




世界の本当の姿が、どのようなもので、微力な私が、いかに生きるべきか、私を誰か導いてくれるのであれば、そんな嬉しいことは、ありません。


しかし、現実は、そのような導師は、おらず自分で考えるほかありません。


私は、釈尊の影響を受けながら、科学的に考えようと努めています。


わたしが、頭で考えている世界観は、すべてのものは、変化しており、実体がない。


すべてのものとは、私からみた対象世界(外界)であり、私自身です。


実体がないということは、不変・恒久の本質がないと、いうことです。


感覚的には、違います。私の肉体を実体と感じ、感覚器官の捉える世界を実体として感じています。本質がどうであれ、感覚に頼って生きるよりすべがありません。


私の頭で考えている世界観が、仏教の

諸行無常、一切皆苦、諸法非我の三法印の影響を受けていることは自覚するところです。


仏教的には、そこから解脱して、涅槃寂静に至るべきなのでしょうが、わたしは、現実世界から抜け出せません。


方法論的には、釈尊の教えによれば、すべてを捨て、身一つで、さすらいの旅にでも出なければいけないのでしょうが、

想像するだけでも、日本の冬は寒く、夏は暑い。蚊もいる。食べ物にも困るでしょう。山で生活するといっても、どこの山なら、許されるのか見当もつきません。


毎日お風呂にはいりたいと思う軟弱な私は、思い切れません。どこかのお寺に、身を寄せるというのも、生活のためにそうするのは、何か違うような気がします。


結局、私は中途半端なのでしょうか?まあ、もし、無一文になって、追い込まれたらその時考えよう、などと都合よく考えています。


さて、今回のお題についてですが、すべてが、仮の姿であり、私というものにも実体がないとすれば、すべての出来事は、どうでもいいと思う時があります。


仏教的にいうと、執着すべきものがない。


私の最近の出来事でいうと、腹囲92センチなんてどうでもいい。髪の毛は、黒くなりましたが、どうでもいい。資格試験なんてどうでもいい。


と、思うことがあります。


しかし、どうでもいいと言っていると、やることが失くなります。しばらく前まで、時間を持て余し気味でした。


どうでもいいけど、日々の生活の中で、大きな負担にならない最善の選択は、何かと考えています。


そういう選択の結果が、未来につながるというのが、現実ではないかと思っています。



未来といっても、回りを観察すると、あと20年ぐらいでしょうか。もうひと山ありそうです。うまく越えられるかどうか。


心静かにその時を待て。釈尊の言葉です。


待つのが苦手な私は、なんとかそういう環境をつくりたいと、もがいてしまうわけです。


雨の日に、雷が今、落ちたらこんな楽なことはないと思ったり、毎日の生活を結構、楽しい日々だと思ったりします。


結局、すべては、私の心の状態にかかっているのだと最近思います。



さてさて、今回は、とりとめのないお話でした。



      サーヴァカ

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