「人生」 百年に勝る一日

人生         


人生 ①    新字源 による

①  人としてこの世に生きること

② 人の一生


人生意気に感ず

 

 人として生まれた以上 自分と意気投合する者のために 身命をささげることが 大切である。


人生朝露のごとし

 人の一生は 日の出と共に消える朝つゆのように短くはかない




人生②

  良かろうが悪かろうが、 自分の人生は自分だけのものである。

  苦しみや悲しみはなく、 楽しいことだけの人生がよろしげに思えるが、 存外に苦しみや悲しみは、 味わい深いものである。 それらを経て、 初めて人は心が豊かになる。


心が破綻(はたん)せずに ブッダの言葉にたどり着ければ幸運である。


    と思います。  サーヴァカ






人生③   百年 に勝る一日


怠りなまけて、 気力もなく 百年生きるよりは、 健康に努め励んで 1日生きるほうが優れている。       ダンマパダ112



物事が起こり、 また消え失せることわりを見ないで、 百年生きるよりも、 物事が 興り 消え失せる ことわりを見て 1日生きることのほうがすぐれている。

            ダンマパダ113


最上の真理を見ないで百年生きるよりも、 最上の 真理を見て 1日生きることのほうがすぐれている。      ダンマパダ115



百年に勝る一日を 生きてみるべきではなかろうか。 朝露(ちょうろ)のような 一生である故に       サーヴァカ 



追記

百年に勝る一日があると思うことが 私には救いなのである。

            サーヴァカ

木の知性

木の知性    


ある時 あなたは散歩をしていたとします。 そして、 木陰で休みます。 その時あなたは、 木がある事を目で知り、 木陰があることを肌で知り、 風が吹けば、 葉のざわめきを耳で知る。

では、 木の方はどうでしょうか? 木はあなたの存在を知覚しているのでしょうか? どう思われますか?


ここである植物を紹介します。

その植物は花の中にある昆虫のメスそっくりの物を作ります。 オスはメスだと思い飛び乗るとそうではないことに気づく。 気づいた時には花の蜜に取り囲まれている。 混乱したオスは蜜の中で暴れ、体中花粉だらけになる。 この植物はそうして受粉する。

このことから、その植物は メスの形態を認識しているといえる。 色とか形とか。 そうでなければその模造をつくることは不可能です。 植物も 私たちと同じように、何らかの方法で、周囲のものを知覚している。 そして昆虫の生態を知り、 それを利用することを知っているとしか思えない。

木陰で休む私たちは、 木がそこにあることを知っていますが、 木の方も私たちがいることを知っているという結論になるのです。

植物に知性があるという例は他にもたくさんあります。

知性は人間や動物だけにあるものではなく、 生物全体にあり それはある意味人間よりも(かなり)高度なものであるといえると思います。

         サーヴァカ


追記

木にも知性( 知覚能力)が あるのだと思って、 毎日ある木の近くに立って、 何事が起こらないかと試しました。 当然のことながら 木は淡々としてそこにあるだけです。 まあ、あと2億年ぐらいしたら漫画の中の木のように、しゃべる木が現れるかもしれないと思ったりして。

         サーヴァカ

かたちと心( 唯物論と唯心論)

かたちと心   


唯心論

  心を離れて物質はなく、 外界のすべての現象は心の現れで、 心が根本的実在であるとする考え。


唯物論

  物質を終局の実在とし、 外界のすべての現象は物質の作用に基づき、 精神のはたらきもまたその現れであるとする考え。

           (新字源による)


枯葉(かれは)が宙を舞う

蝶(ちょう)がひらひらと飛ぶ

現象としては外見上非常に似ている。 心が精神活動の根本であるとすれば、 蝶は心の作用により宙を飛ぶ。 枯葉は生物ではないから、 それは単なる物理的現象であると人は言う。 蝶は羽を動かすという意思により枯葉のように宙を舞う。 意志とは何であるか。 作用を引き起こす意識である。

ビッグバン説によれば( 我々にとっては) 何もないところ( 仏教では空、 老子は虚無という)から140 億年前 に 宇宙の大膨張が始まった。 地球は46億年前に誕生し、 約40億年前に生物の元となるものが生まれ始めた。 物質が先であるかに見える。 一方、 生物の場合、 単細胞から多細胞へと連続的な進化の末に 現在の我々や他の生物があるわけだが、その 根底に、 継続的生命の意思があるとしか思えない。


物質の存在とは何であるか

心の存在とは何であるか

物質と心とは別物であるか

ゴッドが創造主であるとすれば、 意志が先であると言えよう。

現象的に見れば、 物質がまずあり、 心が付随的に生じたといえよう。

法のみが常住で あるとすれば、 法に従って心も物質も生まれたのである。

心と物質は別物であると区別しがちだが、 存在( 法の実現)に 多様性があり、 心はそれを認識する力があるという、 それだけのことではないだろうか。 不思議なことではあるが・・・

             サーヴァカ