覚りし仏陀の心境
覚りし仏陀の心境
成道したとき、すなわち、さとった時、釈尊はあまりの心地よさにこのまま餓死して良いと思ったと一説によればあります。
その境地を楽しんでいたのはおよそ3週間。
しかし、釈尊は 結局、頂きに立ったものが山を降りるかのように人々に教えを説く道を選びます。
梵天の勧めによると教典には表現されています。
中村 元訳のサンユッタ・ニカーヤⅡ(悪魔との対話)に詳しく述べられています。
著作権上問題はないかしらと考えていましたが、お金を取らなければ問題ないようなので、その部分を引用させていただきます。
サンユッタ・ニカーヤⅡ 中村 元訳より
梵天に関する集成 p83~p87
私はこのように聞いた。或る時尊師は、ウルヴェーラーで、ネーランジャラー河の岸辺でアジャパーラという名のバニヤンの樹の根もとにとどまっておられた。
初めてさとりを開かれたばかりのときであった。
そのとき尊師はひとり隠れて、静かに瞑想に耽っておられたが、心のうちにこのような考えが起こった。
「 わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところがこの世の人々は執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。さて執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている人々には、(これを条件としてかれがあるということ)すなわち縁起という道理は見がたい。またすべての形成作用のしずまること、すべての執著を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、やすらぎ:(ニルヴァーナ)というこの道理もまた見がたい。だからわたしが理法(教え)を説いたとしても、もしも他の人々がわたしのいうことを理解してくれなければ、わたしには疲労が残るだけだ。わたしには憂慮があるだけだ。」と
実に未だかつて聞かれたことのない、素晴らしい詩句が尊師の心に思い浮かんだ。
「 苦労してわたしがさとりを得たことを、
今説く必要があろうか。
貪りと憎しみにとりつかれた人々が、
この真理をさとることは容易ではない。
この世の流れに逆らい、微妙であり、
深遠で見がたく、微妙であるから、
欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることはできないのだ」と。
尊師がこのように省察しておられるときに、何もしたくないという気持ちに心が傾いて、説法をしようとは思われなかった。
そのとき(世界の主・梵天)は尊師の心の中の思いを心によって知って、次のように考えた。
「 この世は滅びる。この世は消滅する。実に修行を完成した人・尊敬するべき人・正しくさとった人の心が何もしたくないという気持ちに傾いて説法しようと思われないのだ!」
ときに(世界の主・梵天)は譬えば、力ある男が曲げた臂(ひじ)をのばし、のばした臂を曲げるように、梵天界から姿を消して、世尊の前に現れた。
そのとき(世界の主・梵天)は上衣を一つ肩にかけて、 右の膝を地に着け、尊師に向かって合掌・敬礼して、世尊にこのように言った。「 尊い方!尊師は教え(真理)をお説きください。幸ある人は教えを説いてください。世の中には生まれつき汚れの少ない人々がおります。彼らは教えを聞かなければ退歩しますが、聞けば真理をさとる者となりましょう」と
(世界の主・梵天)はこのように述べ、 このように言いおわってから次のことを説いた。
「 汚れある者どもの考えた不浄な教えがかつてマガダ国に出現しました。
願わくは不死の門を開け。
無垢なる者の覚った法を聞け。
譬えば、 山の頂にある岩の上に立っている人があまねく四方の人々を見下ろすように、あらゆる方向を見る眼ある方は、真理の高閣(たかどの)に登って、自らは憂いを超えていながら(生まれと老いに襲われ、憂いに悩まされる人々)を見そなわせたまえ。
[ 起て、健き人よ、戦勝者よ、
隊商の主よ、負債なき人よ、世間を歩みたまえ。
世尊よ、真理を説きたまえ。
(真理)をさとる者もいるでしょう。]」
その時尊師は梵天の懇請を知り、生きとし生ける者へのあわれみによって、さとった人の眼によって世の中を観察された。
尊師はさとった人の眼によって世の中を見そなわして、世の中には汚れの少ない者ども、汚れの多い者ども、精神的素質の鋭利な者ども、精神的素質の弱くて鈍い者ども。美しい姿の者ども、醜い姿の者ども、教え易いものども、教えにくい者どもがいて、ある人々は来世と罪過への怖れを知って暮らしていることを見られた。
譬えば、 青蓮の池・赤蓮の池・白蓮の池において、若干の青蓮・赤蓮・白蓮は水中に生じ、水中に成長し、水面に出ず、水中に沈んで繁茂するし、また若干の青蓮・赤蓮・白蓮は、水中に成長し、水面に達するし、また若干の青蓮・白蓮・赤蓮は水中に生じ、水中に成長し、水面から上に出て立ち、水に汚されない。
まさにそのように、尊師はさとった人の目をもって世の中を見そうなわして、世の中には汚れの少ない者ども、汚れの多い者ども、精神的素質の鋭利な者ども、精神的素質の弱くて鈍い者ども、美しい姿の者ども、醜い姿の者ども、教え易い者ども、教えにくい者どもがいて、ある人々は来世と罪過への怖れを知って暮らしていることを見られた。
見終わってから、(世界の主・梵天)に詩句をもって呼びかけられた。
「耳ある者に甘露(不死)の門は開かれた。
おのが信仰を捨てよ。
梵天よ。人々を害するであろうかと思って、
わたしはいみじくも絶妙なる真理を人々に説かなかったのだ。」
そこで世界の(主・梵天)は「わたしは世尊が教えを説かれるための機会をつくることができた」と考えて、尊師に敬礼して、右廻りして、その場で姿を消した。
ー以上ー
注: 美しい姿の者ども
精神的な姿の美しいことをいう。身体の美しいことではない。性質・人品の良い者をいう。
醜い姿のものども
性質(たち)の悪い人 、人品の良くない人をいう。
付記:
ここには多くの情報があります。
釈尊の説く理法とは何であるか。
釈尊は全ての人々を救うのではなく、耳あるものに甘露の門は開かれたと言っています。
さていかがだったでしょうか。
私は時々読み返しています。
サーヴァカ